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静かに、考えるための場所

人生の意味を
探し続けるあなたへ

このサイトは、リサーレ・ヌール(Risale-i Nur)という書物の中の 「小さな言葉」を日本語で読むための場所です。 ここでは、誰も責めません。無理に何かを信じさせることもありません。 ただ、心の奥にある問い――「なぜ生きるのか」「死の後には何があるのか」「本当の安らぎとは何か」―― そんな問いに、静かに向き合うための言葉があります。

このサイトは、信仰の有無にかかわらず、すべての人に開かれています。

第1の言葉から第9の言葉まで

それぞれの「言葉」は、短い寓話のような形で、信仰・礼拝・人生・死・来世についての真実を語ります。 ゆっくりと、あなたのペースで読んでみてください。

第1の言葉

「ビスミッラー」— すべての善の始まり
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兄弟よ!
あなたは私に忠言を求めていました。 あなたは一人の兵士であるから、軍に関連するたとえ話を通じていくつかの真実を私の自我と共に聞いてください。 なぜなら誰よりも私の自我がこの忠言を必要としているからです。 かれはかつて8つのクルアーンの言葉を基にした8つの言葉を、少々長い形でわが自我に語ったものでした。 今度は短く庶民的な言葉でわが自我に語ります。 誰でも望む人は共に聞いてください。

静かな夜の砂漠
言葉が語られる、静かな砂漠の夜。

「ビスミッラーヒッラフマーニッラヒーム(慈悲深い慈愛遍くアッラーの御名において)」という言葉はあらゆる善の始まりです。 私たちは何をするにもその言葉で始めます。

わが自己よ、知りなさい。その神聖な言葉はイスラームのしるしであり、全ての被創造物が唱える言葉なのです。
金色でビスミッラーと書かれた書道作品
ビスミッラーは、あらゆる善の始まり。

「ビスミッラー」という言葉がいかに偉大であり、無尽蔵の力であり、無限の恵みでもあるかということを理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。

アラビアの砂漠を行く旅人は、部族長の名前を得て、その庇護のもとで旅をしていました。 そうでなければ盗賊などの害を避けることも、旅の必需品を賄うこともできなかったのです。 単独では数え切れないほどの敵が存在し、必需品を満たすこともできませんでした。

アラビアの砂漠を行く二人の旅人
アラビアの砂漠を行く、二人の旅人。

ある日、二人の旅人がアラビアの砂漠を進んでいました。 その一人は謙遜な人で、もう一人はうぬぼれ強い人でした。 謙遜な方はある長の庇護下に入りましたが、うぬぼれ強い方はそうしませんでした。

長の庇護を求めて天幕に入る旅人
長の庇護を求める者と、求めない者。

長の名前を得た旅人は、あらゆる場所で安全な旅を過ごしました。 盗賊に出くわすと彼はいつも「私はこういった長の保護をいただいている者です」と言い、盗賊は彼を苦しめることなく去っていきました。 彼がテントに入ると、その長の名前のお陰で敬意を払われました。

盗賊に出会うが守られている旅人
盗賊に出会っても、恐れることはない。
天幕の中で敬意をもって迎え入れられる旅人
長の名によって、迎え入れられる。

一方で、不遜なもう一人の男は、その行程において常に言葉で言い表せないほどひどい目にあいました。 ついには、恐怖で全身を震わせ、物乞いをするまでに陥り、惨めな状況でした。

独り砂漠を彷徨い困窮する旅人
独り歩む者を待つ、過酷な道。

さあ、不遜な私の魂よ。あなたはこの旅人で、この世はその砂漠のようなものなのです。 あなたの弱さ、無力さは限りのないものです。 あなたの敵も、あなたが必要とするものも、数えきれない程です。 だから、この広い世界の永遠のマーリキ・エベディであり、ハーキム・エゼリーであるお方の美名を得てください。 そうしないとあなたは、この世の無限の被造物に頭を下げ、あらゆる出来事におびえることから救われないのです。

果てしない砂漠を歩む一人の人
この世は、果てしない砂漠に似ている。

この言葉はとても神聖な源です。 この言葉は、あなたの限りのない弱さ、無力さ、そしてあなたを無限の力、慈悲に結び付け、カーディリ・ラヒームであるお方の御前でその弱さ、無力さは最も受け入れられるとりなしを行います。

広大な砂漠の中の小さな人影
限りない弱さの中で、寄る辺を求めて。

そう、この言葉によって行動する人は、軍に入り、国家と法の名の下で、あらゆることを行い、あらゆることに耐える人に似ているのです。

国家の名のもとに働く若き兵士
国の名のもとに、兵士は働く。

冒頭で触れたように、全ての被造物は声に出さずとも「ビスミッラー」を唱えています。 例えば、一人の人がある町に来て、そこの人たちを皆どこか別のところに移動させ、働かせたとすれば、それを目にした者はあることを理解するでしょう。 すなわち、その男は自分の力で、あるいは自分の名においてそういうことが出来るのではなく、彼は兵士であるに違いなく、国家の名の下に行動し、国の長の力でそれらを行ったのだということです。

街の人々を導いて歩く一人の人
その力は、己のものではない。

このように、全てのものはアッラーの名のもとに動いているのです。 例えば、小さな種が山のように大きなその樹木を持ち上げています。 この世の中の樹木は全て、ビスミッラーと唱えながら、慈愛深き方の恩恵である様々な果物をその枝につけ、我々人間に食べさせてくれるのです。アッラーの恩恵を我々にもたらしてくれるのです。

小さな種から育つ大樹
小さな種が、大樹を支える。
多様な作物が実る耕地
同じ土から、異なる恵みが実る。

また、全ての耕地はビスミッラーを唱え、全知全能のお方の力により、同じ土の中で多様な種類の作物を作り出します。 牛・ラクダ・羊なども、一頭一頭がビスミッラーを唱え、慈悲の恵みにより、それぞれが乳を出す泉となります。 私たちに、ラッザーク(全ての被造物に糧を与えられるお方)の名で、最も細やかで最も清らかな、生命の水のような糧を供給します。

乳をもたらす家畜たち
一頭一頭が、乳の泉となる。

全ての植物、木、草の絹のように柔らかい根や繊維は「ビスミッラー」と唱え、堅い岩や土を貫いて地中を進みます。 アッラーの名において、ラフマーン(無限の慈悲で被造物を守られるお方)の名においてと言い、全てがそれに従うのです。

硬い岩を貫く柔らかな根
柔らかな根が、硬い岩を貫く。

そう、空中に枝が広がり、果実をつけるように、その固い石や土の中にある根が、完全な容易さで広がっていくこと、地面の下にも実をつけること、そして厳しい暑さに対し何か月も、薄い、緑色の葉がうるおいを保っていることは、自然発生主義者の口に強い一撃を加えるものです。その目に指を突き入れ、こう言うのです。

厳しい暑さの中でうるおいを保つ緑の葉
薄い葉が、厳しい暑さの中でうるおいを保つ。

「あなたが最も信頼していた硬さや熱すらも、命令に従って行動しているのであり、この絹のように柔らかやかな葉脈はムーサーの杖のように『杖で石を打ちなさい』という命令に従い、石を割るのです。タバコの紙のように薄く繊細な葉は、イブラーヒームの体のように炎を放つその熱に対し『火よ、涼やかであれ、平安であれ』というクルアーンの言葉を唱えているのです。」

参照:クルアーン 2:60、21:69

全ての被造物は心でビスミッラーと唱えており、アッラーの御名において、アッラーの恵みを我々にもたらしてくれます。 だから、私たちもまた、ビスミッラーと唱えるべきなのです。 アッラーの御名において与え、アッラーの御名において受け取るです。 アッラーの御名において与えない、思慮のない人間からは、我々はなにも受け取るべきではないのです。

実り豊かな果樹から果実を分かち合う人々
実る果実もまた、御名を唱えている。

質問:売り手である人に、私たちは一定の代金を払います。真の所有者であるアッラーはどれほどのものを求められるでしょうか。
答え:そう、このムニーミ・ハキーキであるお方が求められる対価とは、以下の三つです。忘れないこと、感謝すること、熟考することです。

師から教えを受け取る若者
問いかけの中に、答えがある。

あらゆることの始めにビスミッラーを言うことは、アッラーを忘れないための方法であり、あらゆることの終わりにアルハムドリッラー(アッラーに賞賛と感謝あれ)と言うことは、感謝する為の方法です。 アッラーを熟考するとは、常にアッラーの恩恵に注意深くあることです。アハド、サマドであるお方の力の奇蹟として、アッラーの慈悲による贈り物として、我々が受け取っている素晴らしく、精巧な恵みについて考えることです。

支配者からの高価な贈り物を運んできただけの人に感謝し敬意を払い、その贈り物の真の主を知らないことは、非常にばかげたことです。 ムニーミ・ハキーキであるお方を忘れて、見かけ上の贈り主を愛することは、非常に愚かな行為なのです。

我が自己よ、もしそのような愚行を避けたいならば、アッラーの御名において与え、アッラーの御名において受け取りなさい。アッラーの御名において始め、アッラーの御名において行うのです。

分かち合われる糧、与え合う手
アッラーの御名において、与え、受け取る。

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第1の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

第2の言葉

信仰の中にある大きな幸福と安らぎ
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信仰に、どれほど大きな幸福と恵みがあるか、そしてどれほど素晴らしい味わいと安らぎがあるか理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。

参照:雌牛章 2:3

ある時、二人の男が楽しみと貿易の為に旅にでました。 うぬぼれの強い人は、ある方向に向かい、もう一方の神の存在を知る人は別の方向へ向かいました。

分かれ道でそれぞれの方向へ旅立つ二人の男
二人の男が、それぞれの道へ旅立つ。

うぬぼれの強い人は、自己中心的で、かつ悲観的でした。そのため、彼が行ったところはかなりひどい場所のように感じられました。 どこを見ても、貧しく希望を失った人々が弾圧に苦しみ、泣き叫んでいました。 行く先々で同じような悲惨な風景を目にしました。 その場所全体が嘆きの家のようでした。

苦しみに沈む人々のいる街
彼の目に映るのは、嘆きに満ちた光景。

彼はこの悲しく、暗澹とした様子を見ないように、酔っぱらっているしかないと考えました。 なぜなら皆、彼にとって敵であり、見知らぬ人のように見えるからでした。 そしてあらゆる場所に存在する死体や、泣く孤児などを見て、良心の痛みをも感じていたのでした。

石造りの門の中でうずくまり嘆く男
その悲しみから、目をそむけたくなる。

もう一方の神に仕える人は、信心深くよい徳を備えていました。 その為、彼が行った場所は とても素晴らしい場所だと感じられました。

この善良な人は、この場所で人々が祭りを楽しんでいるのを目にしました。 あらゆるところに幸福、楽しさがあり、そしてアッラーへの熱情と喜びに満たされたズィクルの家がありました。 皆彼にとって親友や親戚のように見えました。

喜びをもって互いを迎える人々
同じ町が、喜びに満ちて見える。

この町全体で、喜びや感謝を伴う、解放を祝う祭りがありました。 タクビール(アッラーは偉大であると唱えること)とタフリール(アッラー以外に神はいないと唱えること)と共に、喜びに満ちた入隊式があり、太鼓が音楽の音が聞こえていました。

夕暮れの村で祝いを分かち合う人々
祝いの太鼓が、町中に響く。

一人目の人は、自分の悲しみと人々の悲しみの為に非常に落ち込んでいたのに対し、この幸福な人は自分と人々の幸福の為に幸せを感じ、かつ安らいでいました。 さらに、貿易もうまくいき、アッラーに感謝しました。

市場で商いをする二人の男
商いも成り、アッラーに感謝する。

それから彼は帰ってきて、先の人に会いました。 彼の状態を理解し、彼に言いました。

帰り道で再び出会う二人の男
帰り道、二人は再び出会った。

「ああ、あなたはおかしくなってしまった。あなたの内面にある醜さが外面に反映されているのでしょう。だから、あなたは笑うべきことに泣き、義務からの解放を剥奪と思いこんでいるのです。良識を取り戻し、心を清めなさい。これらの災いの覆いが目から取り除かれ、真実を見ることができるでしょう。なぜなら実に公正で、慈悲深く、しもべによく振る舞われ、力強い、秩序を愛し、いたわり深い支配者が存在するのです。この発展し、成熟した町は、あなたの妄想が示すようなものではあり得ないのです。」

夕暮れに語り合う二人の男
「良識を取り戻しなさい」と、彼は語った。

するとこの人は良識を取り戻して後悔しました。 「その通りです。私は酒を飲んでいるうちに正気を失っていたのでしょう。ありがとう。地獄に行くべき状態からあなたが助けてくれました」と言ったのでした。

肩に手を置き、慰め合う二人の男
彼は我に返り、感謝した。
共に道を歩む二人の男
今、二人は同じ道を歩んでいる。

我が自己よ。一人目の人は、不信仰者を象徴しているのです。 彼にとってこの世界は悲嘆を意味します。 全ての生き物は、離別や消滅のせいで泣いている孤児のようです。 彼にとって人間と動物は、死の時という爪につぶされる、何の助けもなく放っておかれるものなのです。 海や山のような大きな被造物は彼の目には、魂のない恐ろしい死体のように見えました。 このような悲しみや不安、恐ろしい妄想は不信仰や逸脱から生じるもので、彼を精神的に罰しているのです。

霧の中の湖にひとり立つ人影
信仰なき目に、世界は悲嘆そのもの。

二人目の人は、信者です。 彼は全能なるアッラー存在を信じ、その正しさを認めています。 彼の観点からは、この世界は人々がアッラーをたたえる場であり、人類と動物の心身の鍛練の場、そして人間とジンの試練の場なのです。

桜と小川に囲まれた穏やかな春の道
信じる者の目に、世界は賛美の場。

全ての人間と動物の死はこの世からの解放です。 生という役目を終えた者は、次に役目を負う者に場所を空け、このはかない現世から満ち足りた気持ちで苦労のない来世へ行くのです。 次の存在がやってきて努力を行うことができるように。

光に満ちた門へと向かう人々
死は、この世からの解放の扉。

あらゆる人間や動物の誕生は入隊すること、任務に就くことを意味します。 全ての生き物は割り当てられた仕事に満足している将校、従業員のようです。 その町で聞こえてくる音は、仕事にかかる時のズィクルとタスビーフ、そして仕事を終えた時の感謝、開放された気持ち、あるいは働く幸せを表現する言葉です。

任務を受け継ぐ若者と見守る長老
生まれることは、務めに就くこと。

全ての被創造物はこの信者の観点からは、サイーディ・ケリーム、そしてマーリキ・ラヒームの従順なしもべであり、親友である役人であり、愛らしい書物なのです。

雛に餌を運ぶ鳥と安らぐ羊
すべての被造物は、従順なしもべ。

このように多くの神聖なる、そして心地よい真実は、彼の信仰を反映し、生じているものなのです。 つまり信仰は、精神的な意味で天国のシドラの木の種を内包するのです。 不信心にも精神的な意味で地獄のザックム(夾竹桃)の種が隠されているのです。 つまり平安と信頼は、ただイスラームと信仰にあるのです。

ひび割れた土から芽吹く若葉と、枯れた棘のつる
信仰は、天国の種を内に宿す。

だから私たちは常に、 「私たちにくださったイスラームの宗教と信仰の完璧さのために、アッラーに讃えあれ」 と言うべきなのです。

夜明けの丘から村を見渡す二人の男
だから私たちは、感謝を捧げる。

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第2の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

第3の言葉

イバーダ(崇拝行為)はいかに大きな取引であるか
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イバーダ(崇拝行為)がいかに大きな取引であり、幸福をもたらすものか、罪を犯すこと、アッラーに従わないこと、快楽にふけることがどんな大きな害であり、そして滅亡に至らせるものであるかを知りたければ、次のたとえ話を聞いてください。

参照:雌牛章 2:21

ある時、二人の兵士が遠い町へ向かうよう命令を受け、一緒に出発しました。 しばらくして、その道は二つに分岐しました。 一人の人がそこにいて、彼らにこう言いました。

命令を受け旅立つ二人の兵士
遠い町への務めを命じられ、二人の兵士は共に旅立つ。

「この右の道には害がなく、そこを行く旅人の九割は大きな利益と楽な旅を得ることができます。 左の道は利益がなく、かつ九割の旅人は被害を受けます。 両方の道は同じ距離です。 ただし、二つの道には違いがあります。 規律がなく管理もされていない左の道は、荷物も武器もなしに行くことができます。 そこでは見せかけの容易さと偽りの快適さを味わうでしょう。 右の道は軍の管理の下にあり、たくさんの食料を詰めた、20キロもある荷物を持ち、また誰にでも勝てるようなかなりの重さのある、国の武器を運ぶ必要があります。」

分岐点で道を説明する人
道はやがて二つに分かれる。安全な道と、見せかけの安逸な道。

二人の人がこの男性の話を聞いた後、幸福な兵士は右に向かいます。 彼は8キロもある重い荷物を肩と腰に載せました。 しかし同時に彼の心と魂は、不安や旅の恐怖を逃れることができました。

右の道を選ぶ兵士
秩序ある道を選んだ兵士は、荷を負う覚悟を決める。
重い荷を背負い歩む兵士
重い荷を負いながらも、その足取りに恐れはない。

もう一人の不運な兵士は兵役を好まず、規律に従いたくもなかった為に左に向かいます。 彼の体は荷物の重さから救われますが、道中、彼の心は助けを受けた人々への負いの意識と、限りない恐怖に押しつぶされることになります。 皆に助けを乞うようになり、また全ての出来事に対して恐れ慄くようになったのです。 やがて目的地に到着したものの、そこでは、反逆者、逃亡者として罰せられたのでした。

助けを乞う不運な兵士
荷を捨てた道の先には、人に助けを乞う日々が待っていた。
夜の岩陰で怯える男
誰も守ってくれない夜、心は恐怖に閉ざされる。
逃亡者として裁かれる男
務めを怠った者は、逃亡者としてその報いを受ける。

軍の秩序を好み、荷物と武器を携えて右の道を行った兵士は、誰の世話も受けることなく、誰も恐れず、心と良心の安らかさのうちに進みます。 やがて、目的地である町に入ります。 そこでは、自分の義務をきちんと果たした、名誉ある兵士にふさわしい褒賞が与えられたのでした。

焚き火のそばで安らかに眠る兵士
秩序に従った者の夜は、安らぎに満ちている。
町の門で迎えられ誉れを受ける兵士
町に着いた兵士には、務めを果たした者への誉れが与えられた。

さあ、聞き分けの悪い我が自己よ! その二人の兵士のうち、一人はアッラーの敬虔なしもべであり、もう一人は反抗的で、自らの気まぐれに従う者なのです。

この道とは人生の道であり、霊魂の世界から来て、墓場を通り、来世へと続くものです。 その荷物と武器は、イバーダと篤信を意味するのです。

地平の彼方まで続く一本道
人生という道は、目に見えぬ世界から墓場を通り、来世へと続いている。

イバーダは確かに、一見重いことのように見えます。 しかし実際、そこには大きな安らぎと容易さがあり、言葉では説明できない程です。

祈りを捧げる旅人
その荷と武器とは、イバーダ(崇拝)と篤い信仰にほかならない。

なぜなら、イバーダを行なう者はその言動の中で、「アシュハド・アン・ラー・イラーハ・イッラッラー」と言います。 私はアッラー他に神はないと証言します。

つまり「ハールクとラッザークはアッラー以外に存在しない。 良いことであれ悪いことであれ、全てはアッラーからである。 アッラーは絶対的な存在であり、無駄なことをされない。 慈悲あまねき存在であり、アッラーの慈愛と恵み深さは有り余るほどである」と信じており、あらゆる事態においてアッラーの豊かな慈悲の扉を見いだし、祈りをもって扉をたたくのです。

麦畑で困窮する人々に糧を分け与える男
「アッラーの御名において」——信仰は、日々の恵みを分かち合う心を育む。

そして、全ての存在がそのラッブの指示に従うことを目にします。 彼はラッブの庇護に入り、アッラーを信頼し、完全に服従して、全ての悪い出来事から庇護を求めます。 信仰は彼に完全なる安心感を与えるのです。

そう、全ての真によいことは無論のこと、勇気の源でさえ信仰とイバーダにあるのです。 あらゆる悪い行為はいうまでもなく、恐怖心の源も、信仰からの逸脱に存在します。

完全な信仰を持つ人であれば、仮に地球が爆弾となり爆発しても、彼を恐れさせることはないのです。 心が信仰によって輝かされた人は、地球が爆弾になって爆発すれば、サマダーニヤであるお方の素晴らしい力に感動しながら、驚きの目で見守るでしょう。

険しい岩山を行く旅人たち
たとえ大地が揺れ動いても、信仰に照らされた心は動じない。

しかし、有名であり、教養があり、高い理性を持ちつつも信仰のない哲学者は、天に流れ星を見たといって地で恐怖に震えるのです。 「この流れ星は地球にぶつからないだろうか」と妄想を抱くのです。 昔、このような流れ星のせいであの巨大なアメリカが震えたことがありました。多くの人が夜中に家から外に逃げたのでした。

流れ星を見上げる二人、一人は怯え一人は静かに見守る
信仰なき者は流れ星にすら怯え、信ずる者はただ静かにそれを見つめる。

人間は数え切れないほどのものを必要としているのに、十分なものを持っていない存在です。 人生の中で無限な災難を受けつつも、自ら何もできることはないのです。 その富や力は、ちょうどその両手の範囲ほどに限られています。 しかし、その希望、願い、苦悩と災難は、視野と想像が許す限りどこまでも広がるほど広大なものです。

これだけ無力で弱く、貧窮さに苦しむ人間の魂にとって、崇拝行為、アッラーへの信頼、信仰、そして自らをアッラーに委ねることがいかに大きな利益であり、幸せであり、恵みであるかということは誰でも理解できるでしょう。

当然のこととして、一割の可能性であったとしても、害のある道より、害のない道が選ばれます。 しかしこのイバーダの道には、害はなく、九割が永遠の幸せという宝物に到るのです。

天秤にかけられた荷と石
十分の一の危うさがあっても、人は害のない道を選ぶ。これもまた理性の声である。

不信仰者、逸脱者の道は、彼ら自身も告白しているように、無益であり、九割の確立で永遠の苦悩に陥ることが、様々な証人たちの証言によっても確かなのです。

つまり、来世と同様、現世の幸福も、イバーダとアッラーの兵卒であることに存在するのです。

だから私たちはいつでも「アッラーの道における従順と成功のため、アッラーに讃えあれ」といい、ムスリムであることをアッラーに感謝しなければならないのです。
朝日に向かって歩む旅人
この世の幸福も、来世の幸福も、イバーダの道の先にある。

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第3の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

第4の言葉

礼拝はいかに貴重なものであり、いかに容易であるか
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礼拝がいかに貴重であり、重要であり、またいかに容易であり、わずかな対価で得られるものか、また礼拝をしない人はいかに無分別で損をしているのかを、2×2が4であることと同じくらい明確に理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。

参照:「礼拝は宗教の柱である」(ティルミズィー、イーマーン 8)

ある時、有力な支配者が二人の召使いに24枚ずつの金貨を与え、二ヶ月かかるところにある、特別な、素晴らしい農場に住まわせるために彼らを送りました。

召使いに金貨を授ける主人
主は二人の召使いに、それぞれ二十四枚の金貨を授けて旅立たせた。

支配者は彼らに次のように命じました。 「そのお金を旅行の費用としなさい。それから向こうで必要なものを買いなさい。ここから一日の距離に駅がある。車や船、列車や飛行機がある。その所持金によって、それに応じた乗り物に乗ることができるのだ。」

分岐点の道しるべ、遠くに汽車と飛行機
分岐点に立つ道しるべ。車、船、汽車、飛行機——行く手にはいくつもの道がある。
馬車、船、汽車、飛行機が並ぶ駅
駅にはあらゆる乗り物が待っている。持てる所持金に応じて、その一つを選ぶことができる。

この二人の召使いは命令を受けた後、出発しました。 その一人は幸運な人で、駅までの道のりでお金を少ししか使いませんでした。 しかも彼はその支出したお金で、主人が喜ぶような素晴らしい取引をし、所持金が千倍にもなったのでした。

市場で見事な取引をする召使い
幸運な召使いは、わずかな金を巧みな取引に費やし、それを千倍にした。
夕日の海を渡る船上の男
彼の旅は、静かな海を渡るように穏やかであった。

もう一人の召使いは運が悪く、心がけもよくなかった為、駅に着くまでに23枚の金貨を使ってしまいました。 賭博などにお金を出してしまい、失ってしまったのです。たった1枚の金だけが残りました。

牢の中で金貨を失い項垂れる男
もう一人は賭け事に金を費やし、一枚の金貨だけを残して、すべてを失った。

友人は彼に言いました。 「あなたのこのお金で切符を買いなさい。この長い道のりを歩いて行ったり、飢えに苦しんだりする羽目に陥らない為に。我々の主人は寛大だから、おそらくはあなたに慈悲をかけられ、あなたの過ちを許してくださるかもしれない。あなたをも飛行機に乗せてくれるでしょう。一日で目的地につくことができるでしょう。さもなければ一人で、二ヶ月もかかる砂漠を空腹のまま歩いていかねばならなくなる。」

最後の金貨を差し出すよう説く友
友は彼に言った。「この最後の金で切符を買いなさい。」
飛行機のそばで旅人を迎える老人
主は寛大な方だ。あわれみをかけられれば、飛行機にさえ乗せてくださるだろう。
一人砂漠の道を歩む旅人
さもなければ、二ヶ月もかかる砂漠を、ひとり飢えながら歩かねばならない。

もしこの人が意地を張ってこの忠告にも関わらず、この最後のお金で、宝庫の鍵を意味するこのチケットを買わず、はかない享楽の為にそれを費やせば、この上なく無分別で、また損害を受け、不幸であることは誰でも理解できるでしょう。

窓口で切符と金貨を交わす手
宝庫の鍵たるこの切符を買わずして、はかない享楽に金を費やすことほど、無分別なことはない。

そう、礼拝をしない人よ!そして礼拝に満足しない我が自己よ!この支配者は私たちのラッブであり、ハールクなのです。

見守る長老たちと召使い
そう、礼拝をしない我が自己よ。この支配者こそ、私たちを創られたラッブなのである。

二人の召し使いの旅人は、一人は信心深く、礼拝を喜んで行う人です。もう一人は不注意で、礼拝をしない人を意味します。

24枚の金貨は24時間の毎日の人生を意味します。その特別な農場は天国です。駅は墓です。その旅は墓、復活、永遠へと至る人間の道のりです。その人の信仰の強さやレベルによって皆それぞれの速度で、その長い道中を進みます。一部の篤信の持ち主は稲妻のように千年の道のりを一日で通過します。また一部は幻想のように5万年の道のりを一日で進みます。クルアーンはこのことを二つの節で言及しています。

机の上に円く並べられた金貨
二十四枚の金貨とは、一日二十四時間の人生にほかならない。
麦畑を抜ける古い門と一本道
駅は墓であり、その旅路は、復活を経て永遠へと至る人間の道である。

この切符は礼拝です。一時間あれば5回の礼拝とウドゥーに十分です。 23時間をこの短い現世での生のために費やし、来世での永遠の生のためにたった一時間さえも費やさない人は、どれだけの損をし、いかに彼自身を苦しめ、理性に反することをしていることでしょうか。

切符を手渡す二人の人影
この切符こそ礼拝である。一時間もあれば、五回の礼拝とウドゥーには十分なのだ。
金貨のそばに置かれた砂時計
現世のために二十三時間を費やしながら、来世のためにたった一時間さえ惜しむ——それがどれほどの損失であろうか。

もし千人の人が参加する宝くじに、財産の半分をかけることを理性で受け入れることができるのであれば――実際には当たる可能性は千分の一ですが――財産の24分の1を、99パーセントの確率で利益を生み出す永遠の宝庫に与えないことは、いかに理性や英知に反することであるか、知性からかけ離れたことであるか、自らを知的であると思っている人には理解できるでしょう。

礼拝には、魂、心、理性の大きな安楽があります。加えて礼拝は身体的に重いものではありません。

野に敷いた布の上で礼拝する男
礼拝には、魂と心と理性の大きな安らぎがある。それは身体にとって重い務めではない。

また礼拝をする人は、普段の生活する中での行為も、意志をしっかり持っていればイバーダになります。こうして人生という資金で来世を自分のものにすることができるのです。つまりはかない生涯をこうして永遠にすることができるのです。

桜咲く道を歩み光へ向かう旅人
こうして、はかない人生という元手をもって、人は永遠を我がものとすることができる。

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第4の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

第5の言葉

礼拝をすること、そして大罪を避けることがいかに人間の真の義務であるか
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礼拝をすること、そして大罪を避けることがいかに人間にとっての真の義務であるか、いかに人間の性質に適したものであるか、そして人間の創造の目的であるかを知りたければ、次のたとえ話を聞いてください。

「本当にアッラーは、主を畏れる者、よい行いをする者と共におられる」(蜜蜂章 16:128)

戦争中、ある部隊に、一人は教育を受け職務に忠実な兵士、もう一人は未熟で自己の欲望に執着している兵士が共にいました。

忠実な兵士と欲望に執着する兵士
訓練に忠実な兵士と、己の欲望に囚われた兵士。二人は共に同じ部隊にいた。

職務に忠実な兵士は訓練や戦いに重きを置き、食糧などの必需品については心配することはありませんでした。 なぜなら、食糧の確保や軍需用品の供給、病気になった場合に治療すること、さらには年老いた時にものを食べさせることなどは国の役目であると知っていたからです。 彼の真の務めは訓練と戦いなのです。 ただ彼は食糧や用具に関する仕事も行います。鍋を沸かし、食器を洗い、運びます。 「何をしているのか」と聞かれると「国のための雑用を行っている」と答えるのです。 「糧を得る為に働いている」とは言わないのです。

訓練に励む忠実な兵士
忠実な兵士は、訓練と戦いにこそ心を注いだ。
兵営で食事を分け与えられる兵士たち
「何をしているのか」と問われれば、彼はただ「国のための雑用だ」と答える。
鍋を火にかけ雑用をこなす兵士
鍋を沸かし、食器を洗い、運ぶ。それもまた、彼にとっては務めの一部にすぎない。

もう一人の、食べ物に執着し、未熟な兵士は訓練や戦争に重きを置きませんでした。 「それは国の仕事だ、私には関係ない」と言ったのでした。 常に自分の生計を考え、部隊を離れ、市場に行き、取引をしていました。

天幕の中で一人考え込む兵士
自らの欲望に執着する兵士は、訓練にも戦いにも心を向けなかった。
市場で取引をする兵士
彼は絶えず部隊を離れ、市場で己の生計を思い煩った。

ある時、教育を受けた兵士が彼に言いました。 「兄弟、君の真の務めは訓練と戦いだ。 君はそのためにここに連れてこられた。 皇帝を信頼しなさい。皇帝は君を空腹のまま放っておかない。それは皇帝の役割だ。 そして本来君は無力で弱い。どこでも君自身を養えることはない。 さらに、今は戦争、戦いの時だ。君のことを反逆者と呼び、罰を与えるかもしれない。 そう、二種類の仕事がある。 一つは皇帝の仕事である。私たちは時にその雑用をも引き受ける。私たちを養ってくださっているからだ。 もう一つは私たちの仕事である。皇帝は仕事を容易にすることで私たちを助けてくださる。それが訓練と戦いなのだ。」

友の言葉に耳を傾ける兵士
「兄弟よ、君の真の務めは訓練と戦いだ。皇帝を信頼しなさい。」

もしこの未熟な兵士が、この熟練した戦士に耳を貸さないのであれば、どれほど危ない状況になるか、理解できるでしょう。

門で兵士に警告する長老
耳を貸さぬ者には、反逆者としての罰が待っているかもしれない。

わが怠慢な自己よ。 この危険な戦場は、混沌としたこの世の生活です。 いくつかの部隊に分けられた軍は、人間社会です。 そしてこの部隊は、今世紀のイスラーム社会なのです。

戦いの喧騒の中で炊事をする人々
この危険な戦場とは、混沌としたこの世の生活にほかならない。
城門へ向かって行進する兵士たち
いくつかの部隊に分かれた軍とは人間社会であり、この部隊こそ、今この時代のイスラーム社会である。

この二人の兵士は、一人はイスラームの命じるところを熟知し、実行し、大きな罪を放棄し、罪を犯さない為に自我やシャイターンと戦う、敬虔なムスリムです。 もう一人は、ラッザーク・ハキーキ(真に糧を与えられるお方)を非難するほどに自分の生計に必死になり、イスラームの命令を放棄し、糧を得る為に多くの罪を犯す罪人であり、それによって損失を受けているのです。

この訓練は、礼拝を始めとするイバーダ(崇拝行為)です。 そしてこの戦争は、我執や欲望、ジンや人のシャイターンに対して戦い、罪や道徳的な堕落から心を、永遠の滅亡から魂を守ることです。

野で一人礼拝する男
この訓練とは、礼拝をはじめとするイバーダである。

この二つの仕事は、一つは生命を与えて育むこと、もう一つは生命を与えて糧を与えて下さるお方に従順に従い、懇願することです。 そのお方にすがり、信頼することです。

そう、サマダーニヤの芸術的な奇蹟、そしてラッバーニヤの英知の奇蹟である生命を創られたのが誰であれ、その生命を育まれ、継続させられるのもそのお方なのです。 他の存在ではあり得ないのです。 証明が必要でしょうか? 最も弱く単純な生物(果物につく虫、魚など)が、最もよい形で育まれるのです。 また最も無力で繊細な被造物(子供や動物の仔など)が、最もよい糧を得るのです。 食料を得る機会は、力やニーズによるものではなく、むしろその弱さ、無力さによるものであると理解するためには、魚と野生のキツネ、動物の仔と獰猛な動物、植物と動物を比較することで十分でしょう。

果実、魚、羊、鳥の巣が共にある穏やかな情景
最も弱く、単純な生き物ほど、最もよい形で育まれている。
狐と、小川の魚や羊を見比べる情景
魚と野生の狐、仔と猛獣を比べれば、糧が力によらぬことは明らかである。

生計の悩みのために礼拝を放棄する人は、あの兵士に似ています。 訓練を放棄し、市場で物乞いをしているのです。 しかし礼拝を行った後で、大地という最も気前のよい供給者の慈悲の台所から食料を求めること、他者の重荷とならない為に自らそれを行うことは立派なことであり、勇敢さであり、それ自体が一つのイバーダなのです。

市場で物乞いをする兵士
生計を憂えて礼拝を捨てる者は、訓練を捨てて市場で物乞いをする兵士に似ている。

さらに、イバーダをするために創造された存在であることを人間の性質や人間の精神的なあり方が示しています。 なぜなら、現世に必要な行動や能力という点で、人間は小さなスズメにも追いつけないのです。 しかし、精神的、来世的な生において必要となる知識や謙虚さ、懇願、そしてイバーダという点で、人は動物の王であり、司令官なのです。

夕暮れの野で羊や鹿とともに立つ男
現世の務めにおいて、人は小さなスズメにさえ及ばない。だが祈りと謙虚さにおいて、人は動物たちの司令官となる。

つまり、ああ我が自己よ、あなたが現世を目標とし、常にその為に働く限り、最も弱いスズメの兵卒となってしまうのです。 しかし、もしあなたが来世を目標とし、人生を来世のための耕地とし、それに応じて努力すれば、動物達の司令官とされ、ジャナーブ・ハック(真実なるお方)に愛され、祈りを唱えるしもべ、現世において栄誉を授けられ尊敬されるアッラーの客人となるのです。

城門へと続く道を歩む旅人
来世を目指し歩む者には、二つの道が開かれている。

そう、あなたには二つの道があります。どちらでも好きな方を選ぶことができます。導きと成功を、アルハムルラーヒミーン(最も慈悲深いお方)に求めてください。

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第5の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

第6の言葉

自我や財産をアッラーに差し出すことはいかに利益のある取引であるか
公開中

自我や財産をアッラーに差し出し、そのしもべとなること、兵士となることがいかに利益のある取引であり、いかに誉れある位階であるか理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。

「まことにアッラーは、信者たちから、彼らに楽園を与えることを条件に、彼ら自身と彼らの財産を買い取られた。」(悔悟章 9:111)

ある時、ある皇帝が家来の二人に、それぞれに農場を一つずつ与えました。その中には工場、機械、馬、武器等、全てが揃っていました。

農場を家来に授ける皇帝
皇帝は二人の家来に、それぞれ農場を一つずつ授けた。

ただ、激しい戦争のさなかであった為、何もそのままの状態を維持することはできない状態でした。なくなってしまったり、価値を失ってしまったりしていました。

戦火に荒れる農場を見る二人
激しい戦争のさなか、何ひとつそのままではいられなかった。

皇帝はこの二人の兵卒に、その完全な慈悲により、非常に高貴な役人を派遣しました。

とても慈悲深い勅令として、彼らに次のように告げられたのでした。

「あなた方が持っている信託の土地を私に売りなさい。あなた方の代わりに、私が守ろう。無駄にならないように。

信託の証を差し出す若者と役人
「あなたが持つこの信託の土地を、私に売りなさい。」

戦争が終わったらあなた方にもっと良い状態にして返そう。

夜の門をくぐり旅立つ若者
「戦いが終われば、もっと良い状態にして返そう。」

そもそもその信託はあなた方のものであるとするなら、大きな対価をあなた方に支払おう。

さらに、機械や工場、道具を私の名で使おう。それによってその対価も報償も一から千に上がるだろう。その全ての利益を私はあなた方に返そう。

さらに、あなたたちは弱くて無力であり、これほど大きな仕事の費用を確保することはできないだろう。

その全ての費用と必要なものを私が確保しよう。全ての収入と利益をあなた方に与えよう。さらに、除隊時まであなた方に持っておいてもらおう。

そう、五段階の利益があるのだ。

もし、あなた方が私に売らないのなら、ご覧の通り誰も自分の物を守れない状態にある。皆と同様、あなた方の手からもそれは消えるだろう。

無駄になり、その高い値段も得られないだろう。

その貴重な、価値のある道具、秤が活用される機会がなくなり、完全にその価値がなくなるだろう。

薄暗い部屋で秤を手にする男
貴い秤も、用いられなければ、その価値のすべてを失ってしまう。

管理と保護の苦労と重荷があなた方に残されるだろう。

かつ、信託を守れなかった罰を受けるだろう。

そう、五段階の損失があるのだ。

かつ、私に売るということは、私の兵となり、私の名でそれらを管理することを意味する。

あなた方は価値のない奴隷ではなく、崇高なスルタンの固有の、自由な高位の兵となるのである。」

この素晴らしい言葉と通告を聞き、二人のうちしっかりしている方がこう言いました。

「畏まりました。私は喜んでお売りします。かつ、深く感謝申し上げます。」

もう一人は傲慢で、自我がファラオのようであり、自己中心的で、まるで永遠にその農場に住めるかのように、世界で起こっている災いや混乱を知らずにいました。

彼はこう言ったのでした。 「いいえ。皇帝とは誰ですか。私は自分の財産を売らない。この快適さを壊すようなことはしない。」

祈る若者と、腕を組み拒む男
一人は喜んで従い、もう一人は誇り高く拒んだ。

わずかの時間の後、一人目の人は非常に高い地位に上がり、皆がそれをうらやむようになりました。皇帝の恵みを受け、宮殿で幸福に過ごしていました。

門前で栄誉を受ける若者
従った者は高き位に上げられ、皆に羨まれる身となった。

もう一人は非常に悪い状態に陥り、人々は彼を憐れみつつも「それにふさわしいだけのことはした」と言っていました。

雨の中うずくまる男を見る若者
拒んだ者は哀れな状態に陥り、人々はただ彼を憐れんだ。
門の外に立つ人々と、離れて佇む男
「それにふさわしいだけのことをした」と、人々は言った。

なぜなら彼は自分の過ちの結果として幸福と財産を失い、罰を受けているからです。

快楽を追い求める我が自己よ。このたとえ話の真実の側面を知りなさい。

この皇帝とは、アザルであられアバドであられ、スルタンであられる、あなたのラッブ、ハールクです。

この土地、工場や機械、道具、秤とはあなたが人生でもっている全てのものとその中にある物体、身体や命、心、そしてその中にある目、舌、知性や思いといった目に見える、もしくは見えない器官です。

この高官とは預言者ムハンマドです。

そしてこの確固たる内容を含んだ通告は、クルアーンです。それはここで触れられている偉大な取引についてこのように宣言しているのです。

「まことにアッラーは、信者たちから、彼らに楽園を与えることを条件に、彼ら自身と彼らの財産を買い取られた。」

(悔悟章 9:111)

この激しい戦場は、この揺れ動く世界です。それは止まることなく回り、壊れていきます。そして皆に次のようなことを考えさせます。

「今持っているものは全て失われてしまう。はかなく、失われる。永遠に続く物に変え、永続させる手段はないのだろうか。」

その時、啓示されたクルアーンの声がそれに応えます。

「はい、あります。しかも、五段階の利益があり、素晴らしく、楽な手段があります。」

質問:「それは何でしょうか?」
答え:「信託を本当の持ち主に売ることです。そう、その取引には五つの段階の利益があるのです。」

一番目の利益:はかなかった物が永続的になります。

なぜなら、カイユーム・バーキであられ、ザートゥ・ズルジャラールであられるお方アッラーに差し出され、その道で費やされたこのはかない人生は永遠のものへと変わるのです。永遠の果物を実らせます。

花咲く果樹園に立つ若者
アッラーに捧げられたこの儚い命は、永遠の果実を実らせる。

その時、人生の一分一分はまるで種、核のような意味を持ちます。見た目には腐ってなくなります。しかし永遠の世界で幸福の花を咲かせます。そしてそれは墓場の世界で光となり、人と共にあるのです。

水辺で静かにたたずむ若者
人生の一分一分は種のようなもの。朽ちるように見えて、永遠の世界で花を咲かせる。

二番目の利益:天国といった対価が支払われます。

三番目の利益:全ての器官や感覚の価値が一から千にあがります。

例えば、知性は一つの道具です。もし、ジャナーブ・ハックに差し出さず、あなた自身のために使えば、有害で苦痛を与える、あなたを不快にする道具となります。過去のつらい悲しみや、将来への大きな恐れを、あなたの無力な頭に負わせる、恵みのない、有害な道具となります。

作業場で機械を操る若者
知性という道具も、我欲のために用いれば、苦しみを運ぶだけとなる。

このために、この罪人は知恵からもたらされる苦しみや痛みから逃れるために何かにふけったり、快楽に逃げるようになるのです。

もしアッラーにお売りし、アッラーの為にそれを用いるなら、知恵は魔法の鍵になり、この世にある全ての慈悲の宝庫、英知の宝庫を開けるのです。それによって持ち主を永遠の幸福の為に備える、ラッバーンの道において道を指し示す人という位階に高めるのです。

灯りの入った箱を静かに見つめる若者
だが、アッラーに捧げれば、知恵は慈悲と英知の宝庫を開く鍵となる。

例えば、目は一つの感覚であり、魂はこの窓によって世界を見ます。もし、ジャナーブ・ハックにお売りせず、あなたの自我の為に使うのであれば、一時的ではかない美、光景に惑わされ、性欲や自我の悪い要求への導きという低い位階においてその目の奴隷となるのです。

もし、目をサーニ・バシールにお譲りし、アッラーのために、そしてアッラーの許される範囲内で用いれば、その目はこの世界のラッバーニヤの奇蹟の作品を鑑賞し、この地球という庭園の慈悲の花々の祝福された鉢という位階に高められることができるでしょう。

桜咲く庭で蜂を見つめる若者
目もまた、アッラーの許しのうちに用いれば、この世という庭園の花々を映す、祝された器となる。

例えば、舌にある味を感じる力を、ファートゥル・ハキームであるお方アッラーにお売りしなければ、我欲の為に、胃袋の為に用いるのであればその時には、胃の納屋や工場の門番という状態に落ちてしまうでしょう。

もし、ラッザーク・カリームにお売りすれば、舌にある味を感じる力は、アッラーの慈悲の宝庫の管理者となり、糧をサマダーニヤのお力によって成熟させる台所の、感謝する管理人となるでしょう。

食卓で果実を味わう若者
舌にある味わう力も、感謝と共に用いれば、慈悲の台所を司る管理者となる。

知性よ、注意してください。有害な道具であることと、この世界の鍵であることではどれほどの差があることでしょうか。

目よ、よく見てください。醜悪な道案内人と、神の図書館の知識豊かな管理者ではどれほどの差があることでしょうか。

そして舌よ、よく味わってください。納屋の門番、工場の番人であることと、神の慈悲の特別な宝庫の管理者であることではどれほどの差があることでしょうか。

そして同様に他の道具や器官について比較すれば、あなたは次のことを理解できるでしょう。すなわち、まさに信者には天国がふさわしく、不信仰者は地獄にふさわしい性質を持つのです。

それらが高い価値を得ることの意義は、信者が信仰と共に、ハールクから託されたものをアッラーの名において、アッラーに許された範囲で使うことにあります。信仰しない者は信託を裏切り、悪を唆す我欲の為に用いるのです。

四番目の利益:人間は弱く、多くの敵を持ちます。無力であり、多くのものを必要としています。非力であり、人生の荷は非常に重いものです。もし、カディーリ・ズルジャラールに頼り、信頼し、従わなければ、良心は常に苦痛の中にあります。結果をもたらさない苦労や痛み、悲しみが彼を窒息させます。その結果人は何かにふけったり、怪物のようになったりするのです。

雨の中畑に膝をつく若者
人はもとより弱く、多くを必要とする存在である。

五番目の利益:全ての器官、道具のイバーダやタスビーフと、その高い報酬が、最も必要とされている時に天国の果実としてあなたに与えられることが、真実が示された人々、目に見えない秘められた真実が特別に見せられた人々の見解の一致により明らかにされています。

もしあなたがこの五つの段階の有利な取引を行なわなければ、利益を得ることができないだけではなく、五つの段階で損をすることになります。

一番目の損:あなたがこれほど愛している財産や子供、崇拝するほどに溺愛している自我や、虜になっていた若さや生命は失われ、あなたの手からなくなってしまいます。しかし、その罪と痛みをあなたに残し、その背に負わせるのです。

二番目の損:信託を裏切ったということで罰を受けます。この上なく価値のある道具を、最もくだらないものの為に費やし、あなたの自我に害を与えたからです。

三番目の損:その全ての貴重な人間に与えられた器官を動物以下のものとし、神の英知を中傷し、害を与えたからです。

四番目の損:その弱さ、無力さの上に、非常に重い人生の荷を背負い、消失と別離の打撃の中で常に嘆き悲しむことになります。

五番目の損:永遠の生命の基盤、またあの世での幸福の為に必要なものを獲得するために与えられた知性や心、目や舌といったラフマーニヤからの贈り物を、あなたに地獄の扉を開く醜い形に変えてしまいます。

ここで、アッラーにお売りするということを考えてみよう。非常に困難なものである為に多くの人がそれを避けているのでしょうか。実際は、決してそうではないのです。

許されている範囲は広く、人が楽しむには十分なのです。禁じられたことを行う必要などないのです。

アッラーに与えられた義務は容易で、わずかなものです。アッラーの兵士、しもべになることは非常に喜びを伴い、光栄なことであり、言葉では説明できない程です。

その務めを果たす時には、アッラーの兵士のように、アッラーの名において行い、アッラーの名において始めるべきです。アッラーの名において与え、アッラーの名において受け取るのです。そして許された範囲の中で行動し、平穏さを見出します。誤ちを犯した時は悔悟をします。

「ラッブよ、我々の過ちをお許しください。我々をあなたのしもべとして認めてください。信託を返す時がくるまで、我々がこの信託をきちんと守れますように。アーミーン。」

膝をつく者に手を差し伸べる若者
「主よ、私たちの過ちをお許しください。この信託を、お返しする日まで守らせてください。」
と懇願しなければならないのです。

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第6の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

第7の言葉

この世界の神秘をひもとく二つの鍵
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この世界の神秘をひもとく「アッラーの存在と唯一性、そして最後の審判の日を信じる」という言葉が、人の魂のために幸福の扉を開く、いかに尊い二つの魔法の鍵であるか。

そして忍耐によって創造主を信頼し庇護を求めること、また感謝と共に全ての存在に糧をお与えになるお方に懇願し、ドゥアーすることがどれほど効果的な薬であるか。

さらにクルアーンを聞くこと、その規定に従うこと、礼拝を行なうこと、大きな罪を放棄すること。 これらが永遠の生への旅路において、いかに重要で価値のある、驚くべき美しさを備えた切符であり、あの世での糧であり、墓場を照らす光となるのかを理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。

ある時、一人の兵士が戦いと試練の場にありました。利益と損失という点でも非常に重大な状態にありました。

すなわち、体の左右に恐ろしい深い傷を受けていました。 その後ろでは、非常に大きなライオンが彼を襲うのを待っているかのようにとどまっていました。

背後に迫るライオンから逃げる兵士
背後には獅子が忍び寄り、目の前には絞首台が待っている。兵士は絶望の淵にいた。

目の前には絞首台があり、彼が愛する者たちをつるし、滅ぼしていました。彼をも待ち構えていたのでした。

そして彼はこの状態で、流刑により長い道を行かなければなりませんでした。

このどうしようもない状態の人が、この恐ろしいありさまに絶望している時、右側から、フドゥルのように善意に満ちた、輝かしい人が現れました。

輝かしい人から鍵を受け取る兵士
その時、右側から光り輝く人が現れ、彼に語りかけた。

彼に言いました。 「絶望してはいけない。あなたに二つの魔法の鍵をあげよう。これをよい形で使えば、あのライオンはあなたに従順な馬となるだろう。あの絞首台は、あなたが楽しみ、旅をするための楽しいブランコになる。

ライオンに乗って進む兵士
「この鍵をよく使えば、あの獅子はあなたに従順な馬となるだろう。」
桜の木のブランコに乗る青年とライオン
「あの絞首台は、あなたが旅を楽しむためのブランコになるだろう。」

それからあなたに二つの薬をあげよう。きちんと使えば、そのひどい傷は「ムハンマドのバラ」と呼ばれる美しい花に変わるだろう。

薔薇の花に変わった腕の傷
「そのひどい傷は、『ムハンマドの薔薇』と呼ばれる美しい花に変わるだろう。」

それからあなたに切符を一枚あげよう。これがあれば、一年かかる道でも一日で、飛ぶように到達することができるだろう。もし信じないのなら、少し試してみなさい。本当だということが分かるように。」

切符を受け取る兵士
「この切符があれば、一年の道のりも一日で飛ぶように到達できるだろう。」

彼は実際に少し試してみて、真実であることを認めました。 そう、この私もこれを認めるのです。なぜなら私も少し試してみたからです。そして真実だと分かったのです。

それからこの兵士は、左側からシャイターンのように悪だくみをする男を見ました。その男は様々な装飾を身につけ、人を酔わせる酒と共にやってきました。

近づいてくる悪だくみをする男
左側から、シャイターンのように悪だくみをする男が近づいてきた。

その男は言いました。 「やあ、我が友よ。さあ来なさい、一緒に酒でも飲んで楽しもう。あの美しい娘たちを眺めよう。この素敵な音楽を聞こう。このおいしそうな食事を楽しもう。」

男は続けました。 「おやおや、こっそり唱えているのは何だ。」 兵士は答えました。 「神秘の言葉だ。」 男は言いました。 「やめなさい、そんな意味の分からないものは。せっかく楽しんでいるのに。」

男はまた尋ねました。 「おや、その手にあるものは何かね。」 兵士は答えました。 「薬だ。」 男は言いました。 「捨ててしまいなさい。どこに使う必要がある。今は拍手喝采の時なのだ。」

男は続けました。 「おや、その五つの印が入った紙は何かね。」 兵士は答えました。 「切符だ。そして任務通知書だ。」 男は言いました。 「そんなの破ってしまいなさい。こんな素敵な春の日に、なぜ旅に出る必要があるのだね。」

兵士に薬を捨てるよう迫る男
「そんなものは捨ててしまいなさい。今は楽しむ時なのだ。」

男はこの計らいによって兵士を説得にかかりました。さらに兵士も彼に傾きかけていました。 そう、人は騙されるのです。私もまた、そのような欺瞞者に騙されたのでした。

突然、右側から大声が響き渡りました。 「決して騙されてはならない。その欺瞞者に言いなさい。

声を上げて割って入る輝かしい人
突然、右側から声が響いた。「決して騙されてはならない。」

『もし背後にいるライオンを倒すことができ、この絞首台を取り除き、体の左右にある傷を癒やし、旅に出ることを拒む手段があるなら、見せなさい。拝見しよう。その後で、さあ楽しもうと言いなさい。もしできないなら黙っていなさい。』」

そして天から来た、フドゥルのようなこの人に語らせなさい。

若さのうちに笑い、今ではその笑ったことに泣いている我が自己よ。理解しなさい。この追い詰められた兵士とはあなたであり、人間です。

ライオンは死の時を意味します。絞首台は死、旅立ち、別離を意味します。昼と夜が移り変わるうちに、全ての親友が永遠の別れを告げ、消えていきます。
去っていく男と、獅子と共に立つ兵士
偽りの誘いは退けられ、獅子はすでに従順な馬となっていた。

そして二つの傷のうち、一つはうんざりするような人間の限りない弱さであり、もう一つは人間の際限のない無力さです。

この流刑の旅は、魂の世界、母の胎内、幼年期、老年、墓場、死後の世界、復活、審判と続く、長い試練の旅路です。

光へ向かう道をライオンと共に進む旅人
この流刑の旅は、母の胎内から幼年期、老年、墓場、そして復活へと続く長い道である。

そしてこの二つの魔法の鍵とは、アッラーへの信仰、そして来世への信仰です。

この神聖な魔法の鍵によって、死はアッラーを信じる者たちにとって、この世という監獄から天国の庭へ、慈悲深いお方の御前へと連れて行く、従順な馬、そしてブラーク(天馬)となります。

それこそ、死の真実を理解した完成された人々が死を愛した理由です。まだ死が訪れないうちに、彼らは死を望んでいたのでした。

旅立ちと別離、死、絞首台である時の流れも、この信仰の鍵によって、荘厳さと偉大さを持たれるお方の、鮮やかな奇跡、力、慈悲深さの顕現を、完全な喜びのうちに目にするための媒介という形になります。

そう、太陽の光の色彩を見せていた鏡が取り換えられ、新しくされること、映画館のスクリーンが取り換えられることで、より素晴らしく、より美しい光景が現れるのです。

この二つの薬は、忍耐とタワックル(自らのできることを行った後でアッラーを信頼すること)です。創造主の力に頼り、その英知を信頼することです。

「それには『有れ』と仰せになれば、即ちある」という世界の王アッラーを、無力さという証書と共に頼りにしている人に、何の恐れがあり得るでしょうか。

なぜなら最も大きな災難を前にしても「本当に私たちはアッラーのものである。本当に私たちはかれの御許に帰る者である」(雌牛章 2:156)と言い、心からの確信と共に慈悲深いアッラーを信頼しているからです。

そう、アッラーを知る人は、無力さの中に、アッラーへの畏れの中に、心地よさを見出すのです。 そう、恐れにも、ある喜びがあるのです。

もし1歳の子どもに知性があり、彼に「一番心地よい、快適な状態は?」と尋ねることができれば、おそらくは次のように答えるでしょう。 「自分の無力さ、弱さを理解し、母の心地よい叱責を恐れつつ、それでも母の慈悲深い胸に庇護を求めている状態です。」

しかし、母の慈愛というものは神の慈愛の顕現の一筋の閃光のような反映に過ぎません。 それこそ、完成された人々がその弱さと神への畏れによって非常な喜びを味わった理由です。彼らは自らの力から激しく離れ、アッラーにその弱さと共に庇護を求めたのです。 自らの無力さ、弱さが、彼らのための取りなしとなるのです。

母の胸に抱かれる子と、見守る父
一歳の子どもにとって最も心地よいのは、自らの弱さを知りながら、母の慈悲深い胸に身を寄せることである。

もう一つの薬とは、感謝と満足感を持って求め、ドゥアーし、糧を与えられるお方の慈悲を信頼することです。

この地上全てを恵みの食卓とされ、春の季節を花束とされ、その食卓に添え、その上にふりかけられた、この上なく気前のよいお方の客人にとって、無力であり、多くのニーズがあるということが、なぜ苦しみや痛みとなり得るでしょうか。

むしろ無力さと多くのニーズは、心地よい希望という形を取ります。食欲のように、貧しさを増す作用をするのです。だから完成された人々は、その無力さを誇っていたのです。
花畑で食卓を前に感謝する青年
この地上のすべてを恵みの食卓とされたお方の客人にとって、無力さは苦しみではなく、心地よい希望となる。

この切符、証書とは、礼拝を始めとする義務を果たすこと、そして大きな罪を放棄することです。

そう、怠惰な自己よ。五回の礼拝を行なうこと、七つの大きな罪から遠ざかっていることは、どれほど容易で簡単なことでしょうか。 そしてその結果、果実、効果はどれほど重大で大きいものであるか。理性があれば、損なわれていないなら、理解できるでしょう。

そして、罪や快楽への虜となることをあなたにそそのかすシャイターンに、そしてあの男に言いなさい。

「もし死をなくすことができ、この世からの別離、無力さ、窮乏といったものを人間から取り除き、墓の扉を閉じる策があるなら、言いなさい。私も聞きましょう。そうでなければ黙りなさい。」

この大宇宙というモスクの中で、クルアーンが宇宙を説いているのを聞きましょう。その光を得ましょう。その庇護のもとに歩みましょう。その言葉を常に唱えていましょう。
星空の下で書物を開き瞑想する青年
この大宇宙というモスクの中で、クルアーンが宇宙を説いているのを聞こう。

そう、クルアーンは言葉であり、それがそう呼ばれるのです。真実であり、アッラーからのものであり、真実を語り、真実を示し、輝かしい英知を放つものがクルアーンなのです。

アッラーよ、私たちの心を信仰とクルアーンの光で輝かせてください。アッラーよ、あなたを常に必要としていることを感じることで私たちを豊かにしてください。あなたの慈悲を必要としていることを感じないことによって私たちを困窮させないでください。私たちは自分自身の力や能力を断念し、あなたの力、強さに庇護を求めます。私たちを、あなたを信頼する者としてください。私たちを欲望と共に取り残さないでください。私たちを庇護によってお守りください。私たちに、男性・女性全ての信仰する者に、慈悲をお与えください。アーミーン。

光と闇に分かれた道の先に立つ人々
二つの魔法の鍵、アッラーへの信仰と来世への信仰は、この世の闇を光へと変える。

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第7の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

第8の言葉

宗教の真実と人の魂
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この世界、そしてこの世界にある人の魂、そして人における宗教のあり方と尊さ、そしてもし正しい教えがなかったとしたら世界は監獄となっていたこと、教えを持たない人が最も不運な被造物であること、そしてこの世界の鍵を開き、人の魂を闇から救うのが「ラーイラーハイッラッラー」と「アッラーフアクバル」であることを理解したければ、次のたとえ話を聞いてください。

「アッラー、かれの他に神はなく、永生に自存される御方」(雌牛章 2:255)
「まことにアッラーの御許における宗教とはイスラームである」(イムラーン家章 3:19)

昔、二人の兄弟が共に、長い旅に出かけました。 そのうちに道が二つに分かれました。 分岐点に、真剣な男がいるのを彼らは目にしました。 そしてその男に尋ねました。「どちらの道がいいでしょうか?」

長い旅に出た二人の兄弟、分かれ道の前で
二人の兄弟は共に旅立ち、道が二つに分かれる場所で真剣な男に出会った。

男は彼らに言いました。 「右の道では、規律や秩序に従う必要があります。しかしその困難の中に、安全や幸福があります。 左の道には自由があります。しかしその自由の中には危険や不運があります。 どちらを選ぶかはあなた方しだいです。」

分岐点で二つの道を説明する男
「右の道には規律の中の安全が、左の道には自由の中の危険がある。」

これを聞いた後、よい性質の兄弟は右の道へ、「アッラーに庇護を求め、信頼します」と言って進んでいきました。そしてそこでの規律や秩序を受け入れていました。

道徳心に欠けるもう一人の兄弟は、ただ自由の為に左の道を選びました。

分かれ道について語り合う三人
よい性質の兄弟は右の規律の道へ、もう一人は自由を求めて左の道へと進んだ。

一見、容易で、実際には困難な状態で道を進むこの人の後をしばらく辿りましょう。

彼は沢を超え、丘を越えて進んでいくうちに、何もない砂漠に入りました。 突然、大きな声が聞こえました。 ライオンが木々の間から飛び出してきて彼を襲ってきたのを彼は目にしました。

砂漠でライオンに襲われる男
何もない砂漠で、突然ライオンが木々の間から飛び出してきた。

彼は逃げ、60アルシュンの深さの水のない井戸に行きつきました。 恐怖のあまり、彼はその井戸に飛び込みました。

深い井戸に飛び込む男
恐怖のあまり、彼は60アルシュンの深さの水のない井戸に飛び込んだ。

井戸の中ほどまで落ちたところで、彼の手が木に引っかかりました。 井戸の壁から生えているその木には、二本の根がありました。 その根を白と黒の二匹のねずみが噛み切ろうとしていました。

彼は上を見ました。ライオンが、当番兵のように井戸のそばで待ち構えていました。 下を見ると、恐ろしい怪物がそこにいました。 頭を持ち上げ、30アルシュンの高さにいる男の足に近づいて来ていました。 その口は井戸の口と同じ位大きいものでした。

井戸の中、木にすがる男の上にライオン、下に怪物
上にはライオンが、下には口を開けた恐ろしい怪物が待ち構えていた。

井戸の内壁を見ると、そこには有害な、毒を持ったかみつく虫がびっしり張り付いていました。 木の先を見ると、それはいちじくの木でした。 しかしいろいろな種類の果実、クルミやザクロまでがそこに実っていたのでした。

しかしこの男はその理解力のなさゆえに、この状態が通常のことではなく、偶然に起こるものでもないということを理解していませんでした。 この奇妙な出来事には秘められたものがあり、それを実現化させている大きな存在があることを把握できずにいました。

彼の心や魂、理性はこのひどい状態に陥ったことに嘆き悲しんでいるにも関わらず、彼の自我はあたかも何も起こっていないかのように知らんぷりを決め込み、魂や心の泣く声にも耳をふさぎ、自分自身を偽り、あたかも果樹園にでもいるかのように、その木の果物を食べ始めたのでした。

いちじくの木の果実を食べる男
彼は自分自身を偽り、あたかも果樹園にいるかのようにその木の果実を食べ始めた。

しかしその果実のいくつかは毒があり、有害なのでした。

あるハディースでジャナーブ・ハックは「しもべが私のことをどのように認識するのであれ、私も彼にそのようにふるまう」と仰せられています。

この不幸な男は、邪推と理解力のなさにより、彼が目にしたものをありきたりで現実のできごとだと思い込みました。 死ぬことも生きることもなく、この状態で罰を受けたのです。

私たちもこの男をここに置いて戻り、もう一人の兄弟の状態を確認しましょう。

この、素晴らしい理性を持った人は進んでいきます。 しかし兄弟のような苦労はしていません。 なぜなら、よい徳を備えている為、よい形で考え、よいことを想像し、自分自身の友となっているからです。

さらに兄弟のように苦労したり苦痛を味わうこともありません。 なぜなら規律を知り、それに従い、それを容易としていくからです。 法に従い、安全のうちに自由に道を進んでいきます。

並木道を静かに進む男
規律を知り、それに従う彼は、法に従い、安全のうちに自由に道を進んでいった。

やがて彼はある庭園に行きつきました。 そこには美しい花や果実があり、同時に手入れをされていない為に汚いものもありました。

彼の兄弟も同じような庭園に入っていました。 彼はこの汚いものにこだわってしまい、吐き気を催していました。 そのため全く休むことなくそこから去っていました。

庭園の手入れされていない汚れた一角
同じ庭園に入った兄弟は、汚いものにこだわり、吐き気を催してそこから去っていった。

こちらの男は「物事のよい面を見なさい」という規則に従って行動し、汚いものを一切見ずにいました。 美しいものを十分に利用したのでした。 そして存分に休憩してからそこを離れたのでした。

庭園の木の下で果実を味わう男
彼は汚いものを見ずに、美しいものを十分に利用し、存分に休憩してから庭園を離れた。

それからさらに進んで、兄弟と同じようにこの男も大きな砂漠に入りました。 突然、彼を襲うライオンの声を聞き、びっくりしました、しかし兄弟ほどに怖がりはしませんでした。

なぜなら、よい受け止め方をし、よい考えで「この砂漠には支配者がいるはずだ。このライオンはその支配者の命令に従う奉仕者なのかもしれない」と考え、慰めを得たのでした。

砂漠でライオンの声を聞く男
「このライオンは、この地の支配者に従う奉仕者なのかもしれない」と考え、彼は慰めを得た。

ただ、やはり彼は逃げました。 60アルシュンの深さの水のない井戸に行きつき、その中に飛び込んだのでした。

ライオンから逃げ井戸に飛び込む男
それでも彼は逃げ、深い井戸へとたどり着き、その中に飛び込んだ。

兄弟と同じように、井戸の半ばでその手が木に引っかかり、宙吊りになりました。 二匹の動物がその木の根を噛み切ろうとしているのを見ました。

上を見るとライオンがいて、下を見ると怪物がいました。 兄弟と同じように驚くような状態に陥ったのでした。

彼もまた恐れを抱きましたが、彼の兄弟の恐怖に比べると1000倍軽いものでした。

落ち着いて状況を見つめる男
彼も驚きはしたが、兄弟の恐怖に比べれば、その恐れは千分の一の軽さだった。

なぜなら彼のよい徳は、彼によい思考を与え、よい思考は、彼に全てのもののよい面を彼に示したからです。

そう、そのために彼は次のように考えたのでした。 「この奇妙な出来事は互いにかかわりがある。しかも一つの命令に従って動いているように思える。 つまりここには何かが秘められているに違いない。これらは秘められた支配者の命令で動いているのだ。 ということで私は一人ではない。この秘められた支配者が私を観察し、私を試し、何か目的があって私をある場所に招いているのだ。」

この甘美な恐れとよい思想から、一つの関心が生まれます。 「私を試し、自らの存在を私に知らせることを望み、この奇妙な手段で、私を何かの目的の為に呼ぼうとしているのは誰なのだろうか。」

そして知りたいという関心から、この秘められた存在への愛情が生じました。 そしてこの愛情から、秘められた謎を解く希望が生じました。 そしてこの希望から、その神秘の主の満足される、気に入られるよい状態となりたいという意志が生じました。

それから彼は木の先端を見て、それがいちじくの木であることを理解しました。しかしその先端には何千もの種類の果実がありました。 それを見て彼の恐怖は完全に消えてしまいました。なぜなら、彼はこのイチジクの木があるリストであり、一覧であり、展示であることを確信したからです。

無数の果実が実るいちじくの木を見上げる男
彼はこの木が、秘められた支配者が用意した糧の見本、一覧であることを確信し、恐怖は消えた。

秘められた支配者が、果樹園や畑にある様々な種類の果実を、その神秘と奇跡によってその木に取り付け、彼自身の客の為に用意した糧の見本という形でこの木を飾ったのに違いないのです。 そうでなければ、一本の木が何千もの種類の果実を実らせることはありえないからです。

それから彼はドゥアーを始めました。 この秘められた力の鍵が彼にひらめきを与えたのでした。 「ああ、この土地の支配者よ。私の運命はあなたに委ねられました。あなたに庇護を求めます。私はあなたへの奉仕者です。あなたのご満悦を求めています。あなたを求めています。」

井戸の木にすがりながらドゥアーをする男
「ああ、この土地の支配者よ。私の運命はあなたに委ねられました」と、彼はドゥアーを始めた。

そしてこのドゥアーの後、突然井戸の内壁が二つに分かれ、清らかで美しい庭園への扉が開かれました。 あの怪物の口がその扉に変ったようでした。 そしてライオンと怪物は二人の召使いとなり、彼を扉の内側へと招きました。 さらにこのライオンは、彼のための従順な馬となりました。

井戸の壁が分かれ、光あふれる庭園への扉が開く
ドゥアーの後、井戸の内壁が分かれ、清らかで美しい庭園への扉が開かれた。
従順な馬となったライオンと共に庭園を歩む男
ライオンと怪物は召使いとなり、ライオンは彼のための従順な馬となった。

そう、怠惰な我が自己よ。そして想像上の我が友よ。 来なさい、この二人の兄弟の状況を比較してみましょう。 善がどのようなよい結果をもたらし、悪がどのような悪い結果をもたらすのかを知りましょう。

左側の道を行った不運な旅人は、常に怪物の口の中に落ちるかもしれない状態にあります。 もう一方の幸運な男は、果物の実る、気持ちのよい庭園へ招待されています。

不運な男はひどい災難と恐怖の中で心が砕けるような目にあいました。 幸運な男は、心地よい警告や軽い恐怖、そして気持ちのいい出会いのうちに、この奇妙な出来事を喜んで眺めています。

不運な男は失望と孤独のうちに苦しんでいます。 しかし幸運な男はそれになじみ、希望と喜び、強い願いの中で喜びを味わっているのです。

不運な男は自らを猛獣の攻撃にさらされた囚われ人と見なしています。 幸運な男は誉れ高い一人の客であり、気前のよいホストの、風変わりな召使いたちと友情を築き、楽しんでいます。

さらにこの不運な男は、一見おいしそうであり、実際には毒入りかもしれない果実を食べることによってその罰をより早く招いているのです。 なぜならこれらの果実は見本なのです。本物を求めているのなら、味を見ることは許されます。 しかし動物のようにそれらを食べつくすことは許されないのです。

幸運な男はそれを味わい、それについて十分に理解し、食べることは後回しにします。 待つことによっても楽しみを味わうのです。

そして、不運な男は自らを苦しめたのです。 明らかに素晴らしい真実と輝かしい状況を、その思慮のなさによって暗く深い闇の妄想、一つの地獄としてしまったのです。 慈悲を受ける権利もなければ、誰かを非難する権利もないのです。

例えば、人が美しい庭園で、友人達に囲まれ、心地よい気候の中楽しい宴を行っているのに、それに満足せずに穢れた酒に逃避し、酔っ払い、それによって自らを真冬に怪物に囲まれ、空腹で裸であると思い込んで泣き始めたとしたら、同情には値しないのです。 彼自身が自らを苦しめており、親友を怪物と思い込んでいるのです。

そう、この不運な男もこのような状態にあったのでした。 幸運な男の方は、真実を見ています。真実は美しいものです。 真実の美しさを理解することによって、その持ち主の完全さを敬うようになります。そして、その慈悲を受けるにふさわしくなるのです。

そう、「悪いことは己から、よいことはアッラーから」というクルアーンの規律の神秘が示されているのです。 「あなたに訪れるどんな幸福も、アッラーからであり、あなたに起こるどんな災厄も、あなた自身からである」(婦人章 4:79)

このような比較をさらに行なえば、この不運な男の我欲が彼自身に精神的な地獄を用意したことが理解できるでしょう。 もう一方の男のよい考え、よい性格、よいものの見方は彼に大きな恵みと幸福をもたらし、輝かしい徳と恵みをもたらしたのでした。

我が自己よ。そして共にこの話を聞いた人よ。 もし、この不運な兄弟のようになりたくなければ、そして幸運な兄弟のようでありたければ、クルアーンを聞き、その法に従いなさい。それに基づいて行動しなさい。

このたとえ話に秘められた真実を理解したのであれば、教え、世界、人、そして信心の真実をそれに当てはめることができます。 重要な部分を私が説明します。細かい部分はあなた自身で考えてみてください。

この二人の兄弟とは、一人が信仰を持つ人の魂、教えに従って生きる人の心です。 もう一方は信じない者の魂であり、アッラーの命令を聞き入れない人の心です。

二つの道の一つ、右側はクルアーンと信仰の道であり、左側は不信仰、イスラームの否定の道です。

この道にあった庭園とは人間社会であり、人間の文明の中の一過性の社会生活です。 その中にはいいこともあれば悪いこともあり、清らかなものと汚いものが共に存在します。

知性を持つ人は、「純粋で混じりけのないものを選び、不純で汚れたものは残しなさい」という法に基づいて行動し、心の平安のうちにそこを通過するのです。

そして砂漠とはこの地球、世界です。 ライオンは死と寿命です。 この井戸は人の肉体であり、生きる時間です。 60アルシュンの深さとは、平均的な人の寿命である60年を意味しています。 そしてこの木は、寿命であり、生命のために必要な要素を意味します。 白と黒の二匹のねずみは昼と夜です。

そしてこの怪物は、墓が入り口である、死後に魂が通る道を意味しています。 しかしその口は信者にとってはこの世という監獄から庭園へと開かれた扉なのです。 この害虫たちは、この世における災いを意味しています。 しかし信者にとっては、のんきさに溺れてしまわないための神の警告であり、慈悲深い神の恵みなのです。

そしてこの木に実っている果実は、現世の恵みです。 慈悲深く気前のよいお方アッラーはこれらを天国における恵みのリストとして、同時に警告として、そして類似品として、天国の果実へと客たちを招く見本として造られたのです。

この木が一本であるにも関らず、様々な種類の果実を実らせることは、何も必要とされず、また全ての被造物がその存在を必要とするお方であるアッラーの力のしるしであり、アッラーが全てを創造され、それぞれの必要なものを与えられ、導かれることのしるし、そして一切の類する者の存在を認めないアッラーの統治のしるしです。

なぜなら、一つのものから全てを作り出す、すなわち、大地からあらゆる種類の植物、果実を創造すること、一滴の水から全ての動物を作られること、単純な食べ物から生物の臓器を作られること、 また一方で全てのものを一つにすること、すなわち、その生き物が食べた無数の種類の食べ物がその動物の肉となること、皮膚になること。 これらは、唯一であり、全てのものによって必要とされ、かつ御自身は何ものをも必要とされないお方、始まりも終わりもない支配者のしるしです。模倣することの不可能なしるしなのです。

そう、一つのものから全てを作られ、また全てのものを一つにされるということは、全てのものを創造されたお方、無限の力の主であるお方にのみ特有のしるしなのです。

そしてこの秘められた力とは信仰の神秘であり、創造の神意の秘密です。 この鍵とは、「アッラーよ、あなたの他に神はない」「アッラー、かれの他に神はなく、永生に自存される御方」という言葉です。

あの怪物の鍵が庭園への扉に変ったことは、次のことを意味しています。 つまり墓とは、信じようとしない人々にとって孤独と忘却の中にあり監獄のように苦しく、怪物の腹のような狭い墓につながる扉です。 それにもかかわらず、クルアーンを読み、信仰を持つ人々にとってはこの世という監獄から永遠なる庭園へ、試練の場から天国の庭へ、この世の苦労から無限の慈悲の主であるアッラーの慈愛へと開かれた扉なのです。

そして、ライオンが親しげな召使いに、それから忠実な馬になったことは、次のことを意味しています。 すなわち、死は、信仰を持たない人にとって愛する全てのものとの永遠の別離です。 さらに、現世という偽りの天国から出され、孤独と苦しみの中、墓場という監獄に移され、閉じ込められることです。

しかし信仰を持つ人にとって死は、あの世に去って行った昔の親友や愛する人々と再会する手段なのです。 そして真の祖国へ、永遠の幸福の地に入る手段なのです。 現世という監獄から天国の庭園への招待状です。 慈悲深い神の恵みによって、それまでの行いにふさわしい報奨を受け取る場でもあるのです。 生という困難な任務からの退役でもあります。 そしてしもべとしての服従や試練という鍛錬からの休息でもあるのです。

要約:誰であれ、このはかない生を真の目標とするなら、一見天国にいるように見えたとしても、精神的には地獄にいるのです。

そして誰であれ永遠の生を真剣に求めるなら、この世とあの世、二つの世界における幸福を得ることになります。この世界がどれほど困難で苦しいものであったとしても、この世を天国への待合室と見なし、それによって甘受し、忍耐し、忍耐のうちに感謝をするのです。

アッラーよ、我々を、幸福で安らいだクルアーンと信仰の民にしてください。アーミーン。

アッラーよ、預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)とその家族、教友たちに、クルアーンが最初に啓示されてから今までクルアーンを読んだ全ての人々の一語一語、慈悲深い神の御赦しによって顕示された一つ一つの句の、全ての文字の数だけ、祝福と平安がありますように。 そしてその数だけ、我々に、母に、父に、男女全ての信者に、その慈愛によって慈悲をお与えください、慈悲深い上にも慈悲深いお方よ。アーミーン。

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第8の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

第9の言葉

五回の祈りの時間はなぜ定められているのか
公開中

兄弟よ。あなたは私に、五回の祈りの時間がなぜ定められているのか、それにはどんな英知が含まれているのかを訊ねました。

参照:ビザンチン章 30:17-18

そのたくさんの英知のうちいくつかを示しましょう。

そう、それぞれの祈りの時間は、重要な変化の始まりの時間であると同時に、偉大なアッラーのみわざの鏡であり、全てをお望みのままになされるアッラーの全てを包括する恵みの投影でもあります。

だからさらなる賛美でもってカディーリ・ズルジャラールを称えるために、それぞれの時間の区分の間で蓄積されたアッラーへの賞賛と感謝を行うことを意味する、礼拝が命じられているのです。

この繊細で深い意味を少し理解するため、次の五つのポイントを私自身の我欲と共に聞いてください。

第一のポイント

礼拝の意味はジャナーブ・ハックへの賛美、賞賛、そして感謝です。

つまり、アッラーの威厳を前にして言葉で、そして心でスブハーナッラー(アッラーはあらゆる欠点からかけ離れたお方である)と唱えること。

アッラーの完全さに対して、言葉と行為でアッラーフ・アクバル(アッラーは偉大である)と称えること。

アッラーの無限の美しさに対し、心と言葉、肉体でアルハムドリッラー(アッラーに感謝を)と唱え、感謝することです。

つまり、タスビーフ(アッラーがあらゆる欠点から遠いお方であると唱えること)、タクビール(アッラーが偉大であると唱えること)、そして感謝は礼拝の核のようなものです。

だから、この三つの言葉は礼拝の全ての部分で、全ての動作と動きに存在します。

それらの神聖な言葉を強めるように、礼拝の後でそれぞれを三十三回ずつ唱えるのもこのためです。

礼拝の意味は、この三つの焦点によって強められるのです。

第二のポイント

イバーダの意味とは、アッラーの慈悲の扉においてしもべが彼自身の欠陥と無力さを知り、ルブービーヤの完全性と、サマダーニヤの力、そしてアッラーの恵みを前にして、愛情と感嘆の中で身を伏すことです。

つまり、ルブービーヤの統治が、アッラーのしもべとなること、従順であることを求めるように、ルブービーヤの統治の神聖さは輝かしさを求めるものなのです。しもべが自らの欠点を目にし、悔悟によって、そのラッブがあらゆる欠点から遠く、輝かしい存在、逸脱した人々の無為な考えからも遠く、崇高でこの世界のあらゆる欠点からかけ離れ、清らかであられることを、タスビーフによって、スブハーナッラーと唱えるようにと。

またアッラーの力の完全性は、しもべが彼自身の弱さと他の被創造物の無力さを理解し、アッラーの御業の威厳を前に、賞賛と感嘆の中で「アッラーフ・アクバル」と唱え、畏怖の気持ちと共にルクウを行い、アッラーに庇護を求め、信頼することを求めるのです。

またアッラーの慈悲の無限なる宝庫は、しもべが懇願と祈願の言葉を通して、彼のニーズ、他の被創造物の要求、必要とするものを求め、ドゥアーの言葉によって示し、そのラッブの恵みを感謝と称賛、そして「アルハムドリッラー」と唱えることを求めます。

つまり、礼拝の言葉と動作はこれらの意味を含んでおり、それらのためにアッラーによって定められたものなのです。

第三のポイント

人間がこの偉大なる宇宙のミニチュア見本であるのと同様、開端章(アル・ファーティハ)は偉大なる聖クルアーンの輝かしい見本です。

礼拝はイバーダの様々な種類を内包する、輝かしいインデックスであり、被創造物のあらゆる種類の崇拝を示す神聖な地図なのです。

第四のポイント

週を示す時計があるとすれば、その時計の秒針、分針、時針、そして日を示す針は、それぞれ、お互いがお互いの見本であり、お互いの後に従う。

天球儀のような黄金の時計
秒針、分針、時針、日の針が互いの見本であるように、アッラーの大いなる時計もまた互いに似ている。

同様に、ジャナーブ・ハックの偉大なる時計の秒針のようである夜と昼の移ろいも、分針のようである年の移ろいも、時針のようである人間の寿命の段階も、日を示す針のようであるこの世界の寿命の段階も、全てそれぞれが互いを当てにして、互いの見本であり、互いに似ており、互いを支配しているのです。

光の差し込む部屋にある天球儀
夜と昼、年の移ろい、人の寿命、世界の寿命は、それぞれ大いなる時計の針のようなものである。

例えば、ファジュルの時間。日が昇るまでのこの時間は、春の始まり、母の胎内での受胎の瞬間、天と地の創造のうち最初の一日に似ており、それらを心に思い起こさせます。そしてそこにあるアッラーのみわざを思い出させるのです。

雪の中から芽を出す種
ファジュルの時間は、春の始まりや母の胎内での受胎の瞬間に似ている。

ズフルの時は、真夏、若さの素晴らしさ、そしてこの世界の寿命における人間の創造の時期に似ており、それを示します。そしてそこにある慈悲の権限と恵みの豊かさを思い出させます。

真夏の陽光の下、実る果樹
ズフルの時は、真夏、若さの素晴らしさに似ている。

アスルの時間は秋、老年期、そして終末の世の預言者(彼の上に祝福と平安あれ)の幸福の時代に似ています。そしてそこに存在する、アッラーのみわざとアッラーの無限の慈悲による恵みを思い出させます。

落ち葉舞う秋の木と古い遺跡
アスルの時間は秋、老年期に似ている。

マグレブの時は、秋の終わりにおける多くの創造物の消失、そして人の死、最後の審判の始まりにおけるこの世の破壊を思い出させることで、アッラーの無限の威厳と崇高さを思い起こさせ、人を不注意なまどろみから目覚めさせます。

夕暮れの岩の上で灯る油ランプ
マグレブの時は、秋の終わりにおける多くの創造物の消失を思い出させる。

イシャーの時は、暗い闇によって昼の世界の全てを覆い隠す黒い覆いを思い起こさせ、そして冬がその白い死者を覆う布によって、地上の死者たちを覆い、さらに死者たちが遺した近親者たちすらも死に絶え、忘却のベールに覆われること、そして、試練のステージであるこの世界が閉じられていくことを思い起こさせることによって、カッハール・ズルジャラールの壮大なみわざを告げるのです。

雪に覆われた夜の墓地
冬がその白い死者を覆う布によって、地上の死者たちを覆う。

夜は、冬、墓、この世とあの世との間にある世界を思い起こさせることで、人間の精神が最も慈悲深いお方の存在をどれほど必要としているかを思い出させます。

雪の中、灯りのともる夜の廟
夜は、冬、墓、この世とあの世との間にある世界を思い起こさせる。

そしてタハージュドの礼拝は、墓場の夜、この世とあの世の間の世界の闇においてそれがどれほど必要な光であるかを人間に知らせ、警告します。

そしてこれらの変化の中でジャナーブ・ムニーム・ハキーキの無限の恵みを思い起こさせ、アッラーが感謝と称賛にいかにふさわしい存在であるかを告げるのです。

満天の星空へと開かれたアーチ
タハージュドの礼拝は、墓場の夜の闇においてそれがどれほど必要な光であるかを人間に知らせる。

そして第二の朝は、復活の朝を思い起こさせます。

夜には朝が、冬には春が適切で、必要で、絶対であるように、復活の朝も墓場の春も同じ絶対性を持つのです。

雪原の上を渡る雁の群れと夕焼け
夜には朝が、冬には春が訪れるように、復活の朝も墓場の春も同じ絶対性を持つ。

つまりこの五つの時がそれぞれ重要な局面の始まりであり、大きな変化を思い起こさせるように、アッラーの驚嘆すべき日々のみわざは、それぞれの年、時期、時代におけるサマダーニヤの力の奇跡、アッラーの慈悲が与えられる贈り物を思い起こさせます。

雪山を背に、川のほとりで実をつける木
アッラーの驚嘆すべき日々のみわざは、それぞれの年、時期、時代における恵みの贈り物を思い起こさせる。

つまり人の生まれながらの義務であり、信仰の基本であるファルドの礼拝は、これらの時間に最も適切であり、ふさわしいのです。

第五のポイント

人間の本質は非常に弱いものです。それにも関わらず、多くのものが彼に影響を与え、彼を嘆かせ、悲しませます。

そして人は非常に無力です。しかし彼を苦しめる災難と敵はとても多いのです。

そして非常に貧しいのです。しかしそのニーズは非常に多いのです。

そして彼は怠け者で、能力を持ちません。しかしその人生の荷はとても重いものです。

彼の人間性は彼をこの世界に結び付けるが、彼が愛するものや親しんだものの消失と別離が常に彼を苦しめます。

また彼の知性は彼に、崇高な目的と無限の成果を彼に示します。しかし彼のできることは少なく、命は短く、力はなく、辛抱強さもわずかなのです。

この状態にある魂がファジュルの時間に、カディーリ・ズルジャラール、ラヒーミ・ズルジャラールの御前で懇願や礼拝によって自らの状態を訴え、成功と援助を求めることがいかに適切か、その日彼の身に起こるであろう出来事や、彼の背に乗せられるであろう重荷のために助けを求めることがいかに不可欠なことか、明白に理解できるでしょう。

夜明けの川辺に立つモスクと飛ぶ鳥たち
この状態にある魂がファジュルの時間に、懇願や礼拝によって自らの状態を訴えることがいかに適切か。

そしてズフルの時間。それは一日の絶頂期であり、その衰えの始まりでもあり、その日の仕事が完成される時であり、仕事の圧力からの短い休憩の時です。このはかない世界の一時的な、そして重い仕事が与える不注意さや疲れから魂が休息を必要としている時であり、アッラーの与えられる恵みが明らかにされる時でもあるのです。

石臼と農具、籠が置かれた古い部屋
ズフルの時間は、その日の仕事が完成される時であり、仕事の圧力からの短い休憩の時である。

人の魂にとって、この正午過ぎの礼拝がどれほど素晴らしく、快く、必要なもので、そして適切であるか理解されるでしょう。プレッシャーから逃れ、不注意さを振り払い、無意味ではかないことを脇へよけ、カイユーム・バーキー、ムニーム・ハキーキの御前で手を組み、あらゆる恵みに感謝し、助けを求めること、その威厳、崇高さの前にルクウをし、自らの弱さを訴え、消えることのないその完全さと比類なき美の前にサジュダをし、感嘆と愛情と謙虚さを訴えることを意味するズフルの礼拝を行うことがいかに素晴らしく、必要なことであり、適切であるかを理解しない人は、真の人とは言えないのです。

夕日に照らされる麦畑と収穫の籠
プレッシャーから逃れ、あらゆる恵みに感謝し、助けを求めることを意味するズフルの礼拝。

アスルの時間、それは秋の物悲しい季節、哀しみに沈んでいる老年期、そして末世の痛みに満ちた時期を思い起こさせます。その日の仕事の結果が出る時間、その日に与えられた健康、安らぎ、立派な奉仕といったアッラーの恵みの集大成が形成される時です。そして巨大な太陽が沈んでいくことで人はただの客に過ぎず、何もかもがはかなく不実であることを示唆する時間なのです。

枯れ木と蜂の巣、たそがれの小屋
アスルの時間は、その日の仕事の結果が出る時間であり、巨大な太陽が沈んでいく時間である。

人の精神は永遠を切望し、永遠のために創造され、慈悲深さを強く慕い、別れによって苦痛を与えられます。このような魂が、立ち、ウドゥーを行い、このアスルの時間に礼拝を行うために、カディーム・バーキー、カイユーム・サルマディー、サマダーニヤの御前で懇願し、失われることのない、限りのない慈悲による救いに庇護を求め、限りない恵みに感謝し、ルブービーヤの威厳と崇高さに対し無力さのうちにルクウを行い、ウルーヒーヤの無限さの前で謙虚にサジュダを行い、真の心の慰め、魂のやすらぎを見出し、アッラーの崇高さの御前でしもべとして服従すべく手を組み合わせることを意味するこのアスルの礼拝を行うことがいかに崇高な任務で、いかに適切な奉仕で、創造における恩にふさわしい行為であるか、そして素晴らしい幸福を得ることであるということを、人であるならば理解できるでしょう。

霧の山、滝、岩から伸びる若芽
人の精神は永遠を切望し、永遠のために創造され、慈悲深さを強く慕う。

マグレブ(日没の時間)。冬の初めの、夏や秋の、繊細で素晴らしい生物たちが、別離の悲嘆のうちに去っていくことを思い出させます。人が死ぬことで、人間が自分が愛する全てのものを別離の悲しみの中に残し、墓に入る時間を思い出させます。この世界が断末魔の苦しみの中に死に、全ての住人が他の世界へ移っていき、そしてこの試練の場の明かりが消される時のことを思い起こさせます。はかなく、つかの間の存在でしかないものを愛し崇拝する人々に強い警告を与える時でもあります。

夕暮れの湖、花と蜂、木々
マグレブは、繊細で素晴らしい生物たちが、別離の悲嘆のうちに去っていくことを思い出させる。

そう、マグレブの礼拝は、このような時間に、本質的に永遠の美である存在を望む鏡のようであり、その限りない美を愛する人の魂は、その顔をこの偉大な事柄を実行し、この大きな世界を動かされ、変えられるカディーミ・ラムヤザル、バーキ・ラヤザルの御業がなされる場に向けます。はかない存在に対し、「アッラーフアクバル」と宣言し、そういった存在から手を引きます。

石造りのアーチから見える丘の景色
限りない美を愛する人の魂は、その顔をこの大きな世界を動かされる御業がなされる場に向けます。

ダーイミ・バーキーであるお方アッラーの御前でキヤームを行い、「アルハムドゥリッラー」ということで、不足のない完全さ、比類なき美、限りのない慈悲に感謝し、賛美を行い、それから「あなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ乞い願う」と宣言することで、何も助けを必要としないルブービーヤ、並ぶもののないウルーヒーヤ、そして助けを要さないその統治に対し、しもべであることを訴え、救いを求めます。

そして無限の強さ、力、比類なき完全さの前で人は自らの弱さ、無能さ、卑しさを明らかにし、「あらゆる欠点や欠如と無縁の存在であられる偉大なる我が主の栄光を讃えます」と唱え、ラッビ・アズィームを賛美します。

そしてその不滅の美しさ、不変の神聖さの前にサジュダし、感嘆と謙虚さのうちにそのお方の存在以外の全てを否定することで愛情と、自らがしもべであることを宣言し、全てのはかないものに対し、ジャミーリ・バーキー、ラヒーミ・サルマディを見出し、そして「アッラーはあらゆる欠点と欠如と無縁の存在であられる」(サジュダの際に唱える言葉)と言い、ラッビ・アーラーがあらゆる欠点から無縁であることを宣言するのです。

それからタシャッフド(座位)を行い、全ての創造物からのドゥアーと祝福祈願を、ジャミーリ・ラムヤザル、ジャリール・ラヤザルに捧げ、「威厳と崇高さが限りのないお方に差し上げます。」

そして偉大なる預言者を祝福することにより、そのお方への忠誠を新たにし、その命令への服従の気持ちを示し、信仰を新たにし、輝かしいものにするため、人はこの宇宙という宮殿の素晴らしい英知に基づいた秩序を観察し、全てを美しく創造されたサーニ・ズルジャラールの唯一性を証言します。

石造りのアーチから望む夕暮れの丘
偉大なる預言者を祝福することにより、人はこの宇宙という宮殿の秩序を観察する。

そしてアッラーが全てを支配し、被造物を導かれることの証拠であり、アッラーが慶ばれる状態、行いを教えられる使者、そして宇宙という書物の章の通訳者であられる預言者ムハンマドが預言者であることを証言します。

これらを意味するマグリブの礼拝を行うことがいかに素晴らしく、また本質的な義務であるか、いかに清らかで輝かしい崇拝行為であるか、そしてこれが一時的な客室でしかないこの世においてつかの間の、しかし最上の会話であること、永続的な幸福であることを理解しない人は、どういった人なのでしょうか。

イシャーの時間。その時、地平線に残されていたわずか痕跡も姿を消し、夜の世界が世界を包み込みます。

「昼と夜を交代させるお方」であるカディーリ・ズルジャラールが、昼間の白いページを夜の黒いページへと変えられること、「太陽と月を従わせるお方」(雷電章 13:2)が、夏の間の美しい緑のページを冬の冷え冷えとした白いページに変えられることにおける、太陽と月を統治下に置かれるハキーム・ズルカマールの御業を思い起こさせます。

時間の経過と共に、墓にいる者たちが遺したものすらもこの世界からなくなること、完全に他の世界へと移ることにおける、死と生のハールクであるお方の行い、みわざを思い起こさせるのです。

雪の墓地、灯りのともる廟、星空
墓にいる者たちが遺したものすらもこの世界からなくなり、完全に他の世界へと移っていく。

この狭くはかなく価値のない世界が完全に破壊され、痛ましい形で最期を迎え、広く、終わりがなく偉大な世界が開かれ、天と地のハールクであるお方の無限の威厳を反映するみわざとアッラーの無限の美を反映した光景を思い起こさせ、思い出させる時なのです。

この世界のマーリク、ムタサッリフィ・ハキーキ、マーブドゥ、そしてマフブーブ・ハキーキ、そして崇拝されるべき存在とは、ただこのお方でしかありえないのです。すなわち夜を昼に変え、冬を春に変え、この世をあの世に変え、本の一ページであるかのようにそれらを記され、消され、変えることできる、カディーリ・ムトゥラークでしかありえないということを証明するのです。

そう、無限の弱さ、無力さ、そして無限の困窮、ニーズ、そして無限の闇に陥り、無数の出来事の中でもまれている人間の魂がイシャーの礼拝を行うことには次のような意味があるのです。

嵐の海に浮かぶ小舟
無限の弱さ、無力さ、そして無限の困窮の中、無数の出来事の中でもまれている人間の魂。

預言者イブラーヒームが「私は沈みゆくものを愛さない」(家畜章 6:76)と言ったように、マーブドゥ・ラムヤザラル、マフブブ・ラーヤザールの宮殿に庇護を求め、このはかない世、はかない命、そして暗い未来の中にあって、バーキー・サルマーディに救いを懇願し、永遠のための神秘に触れる説話やほんのわずかの寿命の中で彼自身の世界を照らし、未来を明るくし、創造物の消失や友との別離から生じた傷を癒される、ラフマーン・ラヒームの恵み深いみわざと導きの光を見て、それを求めること。

そして一時的に彼を忘れ、隠された現世のことを彼もまた忘れ、その苦しみを心の嘆きと共にアッラーの慈悲の扉の前で訴えること。そして、死に似ている眠りに入る前に最後の崇拝の義務を果たし、その日の行動の記録をよい形で締めくくるために礼拝に立つこと。

夜、灯りのともる机のある静かな部屋
彼自身の世界を照らし、未来を明るくし、創造物の消失や友との別離から生じた傷を癒される導きの光を求めること。

つまり彼が愛してきた全てのはかないものの代わりにマーブドゥ、マフブドゥ・バーキー、永遠の生を持たれるお方アッラーを、そして彼が助けを求めてきた全ての無力な存在の代わりに、カディーリ・カリームを、そして全ての彼が恐れ震えてきた災いから救われるためにハーフズ・ラヒームの御前に立つこと。

さらに、開端章から始めること、すなわち何の役にも立たない、ふさわしくない装飾や無力な創造物への称賛や恩の代わりに、カーミリ・ムトゥラクとガニーイ・ムトゥラク、ラヒーム、カリームであるラッビウル・アーラムを称賛し、「あなたにのみ崇め仕える」という呼びかけへと高めること、すなわち自らの矮小さ、無力さ、頼りにするものが他にない状態と共に、アザル、アバドゥ・スルタンである「最後の裁きの日 の主宰者」(開端章 1:4)に従い、この世の一時的な客人、そして重要な任務を帯びている立場となり、「私たちはあなたにのみ崇め仕え、あなたにのみ乞い願う」(開端章 1:5)と言うことによって、全ての被造物の名において、この世界の最大の共同体のイバーダと救いへの懇願をアッラーに伝えること。

そして「わたしたちを正しい道に導きたまえ」(開端章 1:6)と唱えることで、未来の闇の中で、永遠の幸福に至る輝かしい道である「正しい道」への導きを求めること。

夕暮れの丘へと開かれた石のアーチ
「わたしたちを正しい道に導きたまえ」と唱え、永遠の幸福に至る輝かしい道への導きを求める。

そして、今眠っている植物や動物のように、隠された太陽、そして目覚めている星たちがそれぞれ兵士のように命令に従い、またこの世界という客室のランプのようであり、従者のようであることから、ザートゥ・ズルジャラールの偉大さを思い、「アッラーフアクバル」と言いながらルクウを行うこと。

それから、全ての被造物がいっせいにサジュダを行うことを考え、つまりこの夜に眠っている全ての創造物と同様、どの年においても、どの世紀においても様々な創造物、そして大地やこの世界そのものが、それぞれ規律に従う兵士のように、しもべとしての任務を行っていたこの世界から、「『あれ』と御命じになれば、即ちある」(ヤー・スィーン章 36:82)という命令に従ってその任務を解かれる時、すなわち幽玄界へと送られる時、この上ない秩序のうちに別離という絨毯の上で「アッラーは偉大なり」とサジュダし、そして「『あれ』と御命じになれば、即ちある」という命令からもたらされる、生命と警告を与えられる呼びかけによって、一部は同じ形で、一部は異なるけれど似ている形で復活し、立ち上がり、マウラーの御前でその命令に従って両手を組むのです。

同じように人もまたこれらに従って、ラフマーン・ズルカマール、ラヒーミ・ズルジャマールの御前に、感嘆すべき愛情と限りない畏怖の念、謙虚さをもって平伏し「アッラーフアクバル」と言ってサジュダを行うこと、つまり、信者たちにとっての昇天のようであるこのイシャーの礼拝を行なうことがどれほど素晴らしく、どれほどふさわしく、どれほど偉大で味わい深く、またどれほど理にかなった義務、そして奉仕、しもべとしての任務であるか、いかに重要な事実であるか、あなたは理解できたでしょう。

つまり、この五回の礼拝の時は、それぞれが大きな変化のしるしであり、アッラーの包括的で偉大なりわざの刻印であり、アッラーが被造物に与えられた無限の恵みの象徴であるため、人々の義務、責任であるファルドの礼拝がこれらの時間に割り当てられていることはこの上ない英知によるものなのです。

山あいの滝と、そこに芽吹く若い命
この五回の礼拝の時は、それぞれが大きな変化のしるしであり、アッラーの恵みの象徴なのです。

「アッラーよ。あなたを称えます。しもべたちがあなたをどのように知るべきか、そしてあなたに対してどのようなしもべであるべきか教えるために、美名に秘められた宝を示すために、この世界という書物の通訳者として、そしてしもべとして、アッラーの美を映す鏡としてあなたが遣わされたお方に、そして家族と教友たちの全てに祝福と平安がありますように。我々に、男女全ての信仰する者たちに、慈悲をお与えください。アーミーン。慈悲深い上にも慈悲深いお方よ。」

参照:雌牛章 2:32

出典:リサーレ・ヌール全集『小さな言葉』第9の言葉、ベディウッズマン・サイード・ヌルスィー

イスラームとリサーレ・ヌールの基本用語

このサイトで使われる主な言葉をやさしく説明します。初めての方も安心して読めるように、最初の使用箇所では意味を添えています。

用語 日本語 意味
アッラー Allāh 唯一の創造主。このサイトでは「全てを創造し、育て、慈しむお方」として説明されます。
ラッブ Rabbu 「Besleyen, terbiye eden, sahip olan」— 養い、育て、所有されるお方。
イマーン(信仰) shinkō イスラームにおける信仰。アッラーの存在と唯一性、来世などを心で受け入れること。
来世 raise / eien no inochi 死後の永遠の世界。この世界での行いの結果が明らかにされる場所。
タワックル Allāh e no shinrai 自分のやるべきことをした上で、結果をアッラーに委ねる信頼。
イバーダ reiha / sūhai kōi 礼拝を含む、アッラーへの崇拝行為全般。
サラート(礼拝) Sarāt / reiha 定められた時間に行われるイスラームの礼拝。
ビスミッラー Bismillāh 「慈悲深い慈愛遍くアッラーの御名において」という言葉。
クルアーン Kur'ān イスラームの聖典。預言者ムハンマド(彼の上に平安あれ)に啓示された言葉。
リサーレ・ヌール Risāre Nūru ベディウッズマン・サイード・ヌルスィーによる信仰の書物集。
エスマー・フスナー Allāh no utsukushii mina アッラーの美しい御名。慈悲、知恵、力などアッラーの属性を示す名前。
タウヒード yuiitsu shin shinkō アッラーの唯一性。全てが一つの創造主に帰するという信仰。
ハシル fukkatsu / saisei 復活。死後に再び生かされること。
ジャンナ(天国) tengoku / rakuen 信仰と善行に対する永遠の報いとしての楽園。
フィトラト honrai no seishitsu 人間本来の性質。真実を求める心の向き。

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